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戦国に学ぶ財政!織田信長の財源、豊臣秀吉の財力、徳川家康の経済政策!

今も人々を魅了する、日本の歴史の中でも人気の高い戦国時代。

戦国時代とは室町時代から江戸時代初期までの、

世相が乱れて国内が戦で天下取りの動きが盛んになった時代をいいます。

 

そんな戦国時代での数々の戦で勝敗を分けるのは、

兵士や食料、そしれそれらを生み出す土地の広さも含めた、

戦闘力は重要なものでした。

 

それと同じく、大名が治める土地を守るための経済も、とても重要でした。

どんな強い兵士がたくさんいても、どんなに食糧がたくさん貯蓄していても、

それらを雇い、そして買うためにはお金が必要です。

 

これらは現代と変わらない原則ではありますが、

戦国時代のファイナンス(金融)ってあまりイメージありませんよね。

 

しかし、天下人といわれた有名な3人においては、

しっかりと経済政策が記録に残っています。

今回は「戦国時代の経済」について、調べてみたいと思います。

 

 

織田信長の眼は世界に?街や堺の港を収めて財源化に成功!

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織田信長の経済へのこだわりが垣間見える話があります。

 

織田家は信長に家督が渡った後に着々と勢力を伸ばし、

室町時代の将軍が「副将軍」といった、

武家社会での最高の地位を与えようとしましたが、それを断るのです。

 

副将軍になれば、それなりの土地や名誉も与えられ、

何不自由なく暮らせるはずです。

しかし、信長はそのような地位には興味を示さず、「堺・大津・草津」といった、

当時の国内でも極めて大きい商業の街を統治したいと考えていました。

 

つまり、信長は「土地ではなく、最もお金に直結する財源」を、

重要と捉えていたのです。

 

この頃の大名の考えは、

「領土→年貢(穀物)→お金」が一般的だといわれていましたが、

信長は商人が得た利益や売買での経費から収益化をしようとしていました。

 

現代では当たり前の考え方だと思われますが、

これをアナログの時代に既に実践していたとは、凄いですよね!

 

中でも堺は海外との貿易が盛んな都市で、または工業生産地としても、

国内で一番といわれるほどの活気があったようです。

現に宣教師のフランシスコ・ザビエルも、

そのように評価していたとの記録があります。

 

ここで財源をしっかりと確保し、更に勢力を強めていったんですね。

逆にいうと、堺を手にしていなければ信長はどうなっていたのか、

例えばもっと地方に織田家があった場合‥

戦国時代ではそんなタラレバ話にも花が咲きやすいですね!

 

 

豊臣秀吉は派手好き!?全国の金・銀山からの上納で大阪を発展!

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戦国の動乱を終わらせ、天下統一を果たした豊臣秀吉

実は圧倒的な財力もその助けとなっていました。

 

秀吉の財力は、ほぼ金山と銀山によるものです

同じ時代には採掘法が改良されて効率化も進み、銀山は最盛期を迎えていました。

その採掘量は、当時の世界で流通している銀の1/3が日本産だったほどです。

 

それらも相まって、秀吉の所有した遺品は金で造られているものが多いのです!

農家出身の駆け出しの兵士がこんなに成り上がるとは・・・

よく言われていますが、改めて秀吉の凄さを感じます。

 

更に秀吉のはぶりの良さはこんな話も。

1589年には2万枚を超える金銀を公家や大名にタダで配ったそうです。

これは天下の金配りと呼ばれており、

もちろん配布することによって不穏な動きを制して、

内乱を無くす狙いもあったといわれています。

 

では具体的な秀吉の建築物と価格を紹介します。

天下の城として今も人気の高い大阪城

屋根は金箔を張り巡らせた瓦が乗せられていたり、

高さも39mと当時は規格外でした。

 

そんな大阪城は建設費用でおよそ790億円、

城下町の土地整備も含めると5兆円といわれています。

もう規模が違い過ぎて、イメージも何もできませんね。

 

ただ、これらは単に派手好きからのものでなく、先述通りに威厳を保つこと、

更には配った金銀も含め、経済活動をしっかりとまわすことで、

政策としていたともいわれています。

 

 

徳川家康が築いた通過統一!今も引き継がれる画期的な仕組み!

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秀吉が逝去した後、関ヶ原の戦いを経て天下統一をした徳川家康

それまでの京都にあった幕府を江戸に移すという、

それまでの近畿地方から大きく日本の中心を東に持ってきたのです。

 

そんな首都移転計画も、数々の経済政策あってこそ。

彼の政策を見ていきましょう。

 

まず、当時の江戸幕府の収入は、直下の領土にいる農民からの年貢でした。

高い年貢を定めつつも、決して農民が働く力は失わないように・・・

との絶妙なバランスを常に心掛けていたことは、

「死なぬように生きぬように」との発言からも感じられます。

 

また、秀吉と同じく金銀の鉱山も収益がありましたが、

家康はこれを使って貨幣を作り始めたのです。

これが時代劇などでよく聞く、1両とか1銭などの通貨のはじまりといわれており、

現代でも続いている貨幣制度の画期的な取り組みでした。

 

 

まとめ

今回は天下人といわれる3人の経済面について紹介しました。

これ以外にも彼らはたくさんの経済政策を行い、財政を潤わせていました。

 

現代では金融なんて中々理解できるものではありませんが、

こうして歴史を紐解くことで、その基本的な構造が発見できたりして、

シンプルに感じられやすいと思いました。

 

やはりいつの時代もお金は人を魅了するものなんですね。

お金の歴史・・・もっと調べてみようと思います。